スニーカー好きなら、「ブルーリボンスポーツ」の文字を見ただけで心が躍る。
4月1日に、私も参加させていただいたPenの最新号「オニツカタイガー完全読本。」が発売されました。
私が担当したのは、オニツカタイガーの歴史的なページですが、神戸の本社に2日間籠もって、インタビューや取材などを担当させていただき、スニーカー好きな私としては堪らない2日間でした。
今回はそのこぼれ話を少々話したいと思います。
本社にあるアーカイブ室でオニツカタイガーの歴史的な商品などの撮影に立ち会いましたが、アーカイブ室を取り仕切るアシックス スポーツミュージアム・アーカイブ担当部長の福井良守さんがさりげなく出してきたのが、オニツカタイガーの陸上スパイクが表紙になった「BLUE RIBBON SPORTS」のカタログです。
スニーカー好きならばご存知でしょうが、「BLUE RIBBON SPORTS」はナイキの前身で、ナイキの創始者フィル・ナイトとビル・バウワーマンが設立した会社です。フィル・ナイトが著した『シュードッグ』でも詳しく書かれていますが、1962年にフィル・ナイトがオニツカタイガーのシューズを買いに初めて日本にやってきたときに、オニツカタイガーの担当者から「ミスターナイト、何という会社にお勤めですか」と尋ねられたナイトがとっさに思いついて付けた名前が「BLUE RIBBON SPORTS」です。自宅の部屋に飾ってあった、陸上競技でナイトが勝ち取ったブルーリボンを想像して名付けられたと書かれています。実はナイトが神戸に行ったときにはまだ「BLUE RIBBON SPORTS」という会社はつくられてもいませんでした。オニツカタイガーの会社に行かなかったから、この名前は世になかったかもしれません。
「みなさん、アメリカの靴市場は巨大です。まだ手つかずでもあります。御社が参入して、タイガーを店頭に置き、アメリカのアスリートがみんな履いているアディダス より値段を下げれば、ものすごい利益を生む可能性があります」
オニツカタイガーの役員を前にして彼はこうプレゼンテーションし、オニツカタイガーの靴の販売権を勝ち取ったわけです。確かな年号はわかりませんが、このカタログも当時製作されたものでしょう。中はオニツカタイガーが製作した陸上用のシューズがズラリと。なんとまだ髪が短い故スティーブ・プリフォンテーン(ナイキの契約選手で、アメリカ陸上界のレジェンド中のレジェンド)がモデルをやっているではありませんか。
カタログにはオニツカタイガーのシューズ以外にも、日本製のバスケットボールシューズやテニスラケットなども掲載されています。もちろん、まだ「NIKE」の製品も文字もありません。背表紙を見ると、意外にも日本で印刷されたと記載されています。プリフォンテーンがモデルになっていることを考えると、写真はアメリカで撮られたと思いますが、ポジをもらって日本で印刷、それでアシックス の会社にこのカタログが残っていたのかもしれないと、いろいろと想像してしまいます。
アーカイブ室の福井さんが「こんなものもあるよ」と出してくれたのが、シューズ用の布袋です。シワになっていますが、オニツカタイガーのロゴの下に「BLUE RIBBON SPORTS」の文字が入っています。カタログやシューズ袋までつくって、当時、アメリカで商売を始めたフィル・ナイトを鬼塚喜八郎さんとアシックス社が応援していたということは間違いないところです。
「BLUE RIBBON SPORTS」を懐かしむ人がまだナイキにもいるようで、私が持っているナイキのコートシューズにも「BLUE RIBBON SPORTS」の頭文字をモチーフにしたマークがインソールにプリントされています。購入したのは1960年とか70年代? いや、そんなことはありません。正確なことは覚えていませんが、少なくとも21世紀に入ってから購入したものです。私は「BLUE RIBBON SPORTS」という名前の由来を知っていたので、マークを見ただけでだけで嬉々として、この靴を購入してしまいましたが、「BRS」とだけ書かれていますで、「何のマーク?」と思われた人もいるでしょう。
私の靴の話はともかくとして、1960年代に、フィル・ナイトと鬼塚喜八郎という2人のスニーカー界のレジェンドが日本の神戸という街で出会い、オニツカタイガーが世界に乗り出すきっかけとなり、あのナイキを生み出すきっかけになったのは紛れもない事実です。それはこの「BLUE RIBBON SPORTS」のカタログが証明しています。